ポルノ映画論(下)

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「愛のコリーダ」に戻れば、昭和11年の「阿部定」事件をモデルにしながら、大半の時間を男女の交合場面とするこの作品は、重厚・華麗な印象を観客に与えます。しかし、団藤判事の前出の「定義」にはあてはまらないものの、「愛のコリーダ」は、日本初の「ハード・コア・ポルノ」とも評価されているのです。 桑原稲敏「切られた猥褻―映倫カット史」(1993)によれば、大映京都撮影所で撮ったフィルムをフランスで現像処理をして“逆輸入”する方法がとられたが、国内公開を前に、税関と映倫の規制は厳しく、約3ヵ月にわたる税関検査の結果、その際どい裸体・性愛描写が50ヵ所、時間にして29分のカットや修正が求められ、映倫審査では、台詞も25ヵ所の音声が修正になった…とのこと(R-18=成人映画として公開)。 また、税関検査中、捜査当局は映画のスチル写真を口絵に使った大島渚著「愛のコリーダ」(三一書房刊)を猥褻図画販売の容疑で摘発し、起訴。しかし、1979年10月19日、東京地裁(岡田光了裁判長)は無罪判決を言い渡し、1984年6月8日、東京高裁(菅間英男裁判長)は検察側の控訴を棄却して無罪が確定。 「巨乳若奥様…」事件の弁護人は、「(ハード・コア・ポルノにおける性的表現の)公然性を前提にしてそれが公の秩序を乱すと論じるのは虚構の論理であって…それが私的領域に留まっている限り、国家が個人の私的領域に介入してこれを処罰の対象とすることは、明らかに個人の思想信条の自由や幸福追求の権利を侵害するもので…憲法に違反している。」と主張。この主張は、「受け手」の個人にはアダルトDVDの購入および視聴についての「自己決定権」があるとするものです。

しかし、私自身は、「ハード・コア・ポルノ」を全面解放せよという立場には懐疑的です。では、「巨乳若奥様…」と「愛のコリーダ」とをどこで区別し、どのような理由で後者のみに「表現の自由」の保護を与えるのか。「芸術性」という概念は機能するのか…。 映倫委員でもある樋口陽一・東大名誉教授は、市民向けの近著「いま憲法は『時代遅れ』か」(平凡社)の中で、次のように述べています。 「一方で自己決定、これこそが人権の基本にあるということは誰も否定しない。しかし他方で、自己決定によっても侵してはならない価値があるはずです。…『人間の尊厳』がそれです。」 この言葉は、この困難な問いに答えるための貴重な示唆を与えるものです 。

終わり