「まなこ濁りて、愚なるを証す」

コロナ騒動から見えてきた日本のかたちという論題で、昨年5月に上梓したが、オリンピックが8月8日に閉幕したことから、その続編を論じてみたい。

コロナとオリンピック

コロナウィルスは、今年に入り、デルタ株という変異株を生み出し猛威を振るっている。8月5日には東京で感染者が5000名を超え、全国の感染者も1万人を超えた。その後もコロナ感染者が激増しているが、オリンピックは既定方針どおり開催され、日本人選手の活躍もあり、メディア報道はほぼコロナ報道とオリンピックに独占された。政府は、19都道府県に対して、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置を宣言し、テレワークの推奨と共に不用意な外出を避けて、オリンピックの家庭での観戦を推奨した。

この相反する呼びかけに国民はしっくりしないものを感じている。政府の推奨にも関わらず、首都圏や観光地に於ける外出率は増加した。オリンピックの開催の是非を再論するが、モーンスーン地帯に属する日本で、しかも7月末から8月の上旬という一番暑い時期に、オリンピックを開催すること自体、気が動転して正気の沙汰と思われない。日本政府は頑なにオリンピックの開催にこだわり続け、開催を実行した。IOCとの関係維持や国際公約を守るという側面もあるが、無事、オリンピックを開催したという土産を持って来たるべき衆議院選や総裁選に臨むという政治的な理由もあった。ワクチンがある程度普及すれば、重症患者が減少し、オリンピックによる感染悪化という批判は免れるとの判断である。日本は幸いなことに諸外国に比すれば、コロナ感染者がとびぬけて多い訳ではないので、世界的レベルから見ると内閣府の某アドバイザーが失言したように、この程度の感染状況は、「チョロイ」程度なのかもしれない。しかしながら、実際、コロナで苦しむのは国民であり、さっさと2回の接種を済ませた上級国民である政治家諸氏ではない。IOCのバッハ会長は、スポーツの祭典を通じて平和のメッセージを全世界に届けるとし、菅総理は、コロナに打ち勝った証佐としての祭典であると喧伝している。実際、世界を見渡せは、テレビを通じてオリンピック観戦ができるのはアメリカを筆頭にした先進国や中等国であり、コロナワクチンの普及が遅れているアフリカ、アジア、南米やその他の多くの国では、コロナの対応に汲々としており、とてもバッハ会長や菅総理の言葉が表すような状況下ではないことは自明であろう。オリンピックは、世界の人々に喜びを届けるものである以上、その前提として、少なくとも日常の生活が平和であり、祭典を享受できる状況下で開催されるべきものではないであろうか。

その意味で、今回のオリンピックは、開催の前提について大きな疑問符が付く。今回のオリンピック開催のために、日本は3兆円を超える財政(税金)負担をする。仮に、この3兆円を超える費用の半分である1兆5000億円を未だ十分にワクチンの普及が進まない発展途上国のワクチン購入費用や公衆衛生費用に振り向け、残余の1兆5000億円は国内のコロナ感染対策費としたならば、どのような状況になったであろうか? 発展途上国に対する金銭援助は歓迎されることは間違いない。また、国内の医療体制確保のための費用も国民の理解を得られるであろう。賢人が言うように金は正しく使わななければならないのである。

パンデミックが炙り出す医療状況

コロナの対応に全世界の政府が苦慮している。それでも、アメリカやヨーロッパではワクチン接種が進行したことから、一時、死亡者数や感染者が減少したが、デルタ株が再び、猛威を振るい、感染者が増加する傾向を示している。ワクチンの接種が遅れている国々では悲惨な状況にあり、アフリカのチュニジアやアジアのインドネシア・インドなど医療体制が殆ど崩壊状態である。デルタ株の猛威により、ワクチン先進国のイスラエルでは3回目のワクチン接種(いわゆるブースター)が論議されている中、世界では数億人という人が1回目のワクチン接種すら受けることができずに放置されている。

経済格差から生ずるワクチン格差についてWHOは、強い警告を発している。日本の場合、デルタ株により、急速に患者数は増加しているものの、65歳以上の高齢者に対する2回目の接種が進み、今は、50歳以下のコロナ患者の増加防止に政治上の施策の中心が移行している。中でも、コロナ患者用のベッドの確保が喫緊の課題となっている。

小泉政権以前から、医療の効率化という名目で、国公立の病院やベッド数が減らされ(大阪維新の会は、「行政改革」、「医療改革」と称して、その先陣を走って来た)、急性期患者用の民間のベッドは増大したものの、感染症用の対策は長らく放置されて来た。医療の効率化という名目で、儲かる医療が優先され続け、長期療養者の確保で病院がペイする体制になっていったのである。このような医療の効率化に日本医師会も協力し、今では、日本の全ベッド数の約7割が民間病院等で占められている。公の病院が中心となる欧米の病院事情とは大きく異なる姿である。民間病院であれば、国公立病院と異なり、コロナ患者を引き受けるには、財政面や人員で大きなハンディキャップがあることから、即座に、コロナ患者を受け入れることが困難となる。現在、多くの医師や看護師が献身的にコロナ患者の対応にあたっているが、政府のこれまでの医療体制構築のつけを今、支払わされていると考えるべきである。

政治家の資質

今年の4月に大阪では、コロナ感染者の激増により、コロナ病床がひっ迫し、医療体制の崩壊と思われる現象が生じた。大阪に於ける公立病院等の病床の減少化に積極的に旗を振ったのはほかならぬ「大阪維新の会」であり、そのパフォーマーでもある維新の会の責任者の一人でもある吉村知事が対応に追われるのは何かの皮肉と思われる。

専門家の試算では8月中旬には、東京でもコロナ患者が1万人に達するとの見込みの中、8月4日に菅総理は、「中等症患者は原則、自宅で療養」と発言し、まもなくその発言は集中砲火を浴びて修正に追い込まれた。菅総理の記者会見をみて、何時も感じることであるが、この人は、質問に誠実に答えるという姿勢がまず感じられないし、言葉にも表情がなく、そもそも自らの政治の方向性を語ることもない。言質を取られること、批判されるのを極力好まないようである。発言内容も不明瞭なところがあり、丁度、夏目漱石の小説、「吾輩は猫である」の中で、吾輩が主人の顔を観察するくだりを思い起させる。吾輩は主人の表情に関して「彼の精神が朦朧として不得要領底に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然、味々然として・・・彼の頭脳が不透不明の実質から構成されていた、その作用が暗澹凕朦の極に達しているから、自然とこれが形状の上にあらわれて、・・・まなこ濁って、愚なるを証す」と描写している。なんとも良く似た風景ではないか。

コロナというパンデミックに遭遇し、難局に直面していることは国民も理解しているのであるから、政治家としては、科学に立脚しつつも、力点をおくべきところを明確にして、ドイツのメルケル首相のように国民に積極的に語りかけるという真のコミュニケーションを実践すべきである。間違えたなら、直ちに、撤回をして謝罪をすれば良いのである。夏目漱石が生きていれば、現在の旧態を踏襲するばかり、若しくはパフォーマンスだけの政治家諸氏に対して何と評するであろうか。

昔、太平洋戦争のさなか、アメリカ軍が日本軍を揶揄した表現がある。「兵は優秀、中堅はまあまあ、最高幹部は最低。」今の日本で言えば、国民やエッセンシャルワーカーは優秀、一般の公務員等の中堅層はまあまあ、最高幹部である政治家諸氏や中央官僚は最低レベルという評価になる。この国は表面的には変わったが、内実はあまり変わっていないのかも知れない。

結語

色々と政治家諸氏の悪口を書いてきたが、コロナという、100年に一度あるかないかのパンデミックは、世界の人々が置かれている状況を大きく炙り出して見せている。

21世紀に生きる我々としては、もう一度、足元を見つめ直す必要があるかも知れない。

ヘミングウェイが「誰がために鐘は鳴る」という小説の中に引用した17世紀の詩人「ジョン・ダン」の詩の一節をここに掲げたいと思う。

Devotions Upon Emergent Occasions     Meditation XV11

原文

No man is an island, entire of itself, every man is a piece of the continent, a part

Of the main, if a clod be washed away by the sea, Europe is less, as well as if a pro

Monitory were ,as well as if manor of thy friend’s or thine own were,

Any man’s death diminishes me, because I am involved in mankind , and therefore

Never send to know for whom the bell tolls, it tolls for thee

訳文

 なんびとも 一島嶼にてはあらず なんびとも みずからにして全くはなし

人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ) 本土のひとひら

そのひとひらの土塊(つちくれ)を 波の来りて洗い行けば

洗われしだけ欧州の土の失せるは さながらに岬の失せるなり

なんびとのみまかり(死ぬ)ゆくもこれに似て みずからを殺(そ)ぐにひとし

そは、われもまた人類の一部なれば  

ゆえに問うなかれ 誰(た)がために 鐘は鳴るやと

そは、汝(な)がために 鳴るなれば

(大久保康雄 訳)