「自然災害と人的災害」(小林弁護士)を読んで

小林克典「自然災害と人的災害」はこちら

9年前、フィリッピン・セブ島から、最貧の島、サマールのカルバイヨグ市に渡り、数日のback-packingを経て、300キロ離れたレイテ島東北端の州都タクロバン市まで、おんぼろ乗り合いバスで移動したことがあります。タクロバンの海辺のマッカーサー記念公園には、小林弁護士の文中にある”I shall return!”を実現した、金色に輝くマッカーサー軍団の銅像が立ち並んでいました。
 翌日、乗り合いバスで、タクロバンから島北西部のオルモック市に向かったのですが、私にとって、タクロバン、オルモックは、大岡昇平の「レイテ戦記」で、すでにお馴染みの地名でした。日本軍の飛行場や司令部があったタクロバンは奪還され、全島の日本兵たちが、集結地の港町オルモックを目指し山中をバラバラに敗走。正規の戦闘以外に、飢餓やマラリアなどにより、派遣された兵8万4千人のうち、実に7万9千人が死亡し、帰還兵は大岡氏を含めてわずかに2千5百人でした(中公文庫「レイテ戦記」・下・p276)。 私は、オルモックに向かうバスの中で、窓に入る風に乗った敗走日本兵のうめき声を聞く思いでした。

戦後70年。日本は復興して経済大国となったのに、今回の最大の被災地レイテ島もサマール島も、日本人の想像を絶するほど、極端に貧しい島のままです。
朝日新聞の11月17日朝刊1面に「何もかも失った」という見出しでサマール島の写真と関連記事が掲載されています。しかし、「東日本大震災」の被害地の写真(私はその年の8月に気仙沼などを訪問した)とは、明らかに違っている。
道路や路地や 流された家の土台などが写っていません。 がれき(鉄骨、セメントトやモルタルの破片、自家用車の残骸ETC.)の山がありません。 垂れ下がった電線、折れた電柱、露出した水道管などもありません。
この写真は、間違いなく、海辺を占拠する住民が千人規模で暮らすスラムの跡なのです。 同じ場所に立ったことはありませんが、9年前の現地旅行の経験から確言できます。
密集していたはずの「家」は、道路のない湿地に立てた棒に廃材などを組み合わせた、土台のない、文字通りの「ほったてごや」です。電気もガスも水道も届いていない。下水道はなく、排泄物は下に垂れ流して、ブタや魚のエサに。交通手段はせいぜい自転車。道路まで出て10円も出せば、乗り合いのオートリキシャが利用できます。湿地を高潮や津波から守る堤防などあるはずがありません。そうすると、「何もかも失った」という見出しは、現地を知る者にとって、いささか違和感があります。

惨状に接した取材記者は、「何もかも失った」という感傷にひたる前に、少なくとも高潮前の現地がどのような風景だったかを冷静に確認すべきです。そうすれば、自然災害が、失うものすら持たず、1日数十円で暮らす最貧の人々から、最後の、かけがえのないものを奪ったことを理解したはずです。
私たちの援助が「原状回復」にとどまるかぎり、日本は、小林弁護士のいう「人的災害」を与えた加害者としての責任を果たしたことにはならないように思われるのです。

自然災害と人的災害

1. フィリピンのレイテ島に襲来した台風30号は、今世紀の最大級の台風であった。アメリカのグアム島の観測所からは、一時、毎秒89メートル近い風速に達したという報道がなされた。台風30号は竜巻並の風速を持ち、また高潮を誘発し、レイテ島のタクロバンの町を一瞬の間に廃墟と化してしまった。2300名を超える死者と数千人の負傷者に対して、国際社会の救援行動が一斉に取られ始めている。フランス、ベルギー、日本赤十字社の医療の先遣隊や各国の救援隊が現地に向かっている。その中でも、アメリカは、空母ジョージ・ワシントンを始め、2隻の巡洋艦、2隻の駆逐艦、1隻の輸送艦を香港から現地に向かわせ、日本も陸上自衛隊を中心とする1000名が、大型護衛艦、輸送艦、補給艦と共に現地に向かうという報道がなされた。

2. フィリピンのレイテ島は、1944年10月20日から始まった日米の「レイテ島の戦い」の主戦場であり、レイテ島のタクロバンは、かつて、日本軍によりコレヒドールを追われたダクラスマッカーサー将軍が「I Shall Return」の言葉どおり、再上陸を果たした有名な場所でもある。当時、日本陸軍を中心とする総勢8万4000名に対して、アメリカ軍は約20万名の兵力を投入し、日本軍は7万9000名以上の死者を出して敗北した。その町に、69年後、日米の軍隊が人道援助のために来訪することは隔絶の感がある。

3. 台風や地震のような自然災害と戦争のような人的災害、いずれも人間社会に対する「災害」である。1993年に採択された「ウィーン宣言及び行動計画」の第1部、第23節には、自然災害と人的災害について述べ、国際連合憲章と国際人道法の原則に従って、被災者に人道支援を行うことの重要性を指摘している。日本は、先の大戦において、レイテ島で多くの日本軍の死傷者を出したが、現地の人々も数多く戦禍に倒れた歴史的事実を踏まえ、他の国に倍する人道援助を行うべきもの考える。

「レーティングシステム」への模索-映画に対する規制(4)

映画に対する規制(3)はこちら

1980年代後半になると、このような検閲に対する映画人の不満がつのり、合理的な検閲制度を確立しようという議論が活発化し、検閲をはじめ、映画製作、配給、上映など、映画システムのあらゆる面をカバーする「映画法」制定の動きが具体化。88年9月、北京で「国務院」、「電影局」の官僚と全国の映画専門家による「立法検討会が開催されます。

1989年5月、「電影局」は「レーティングシステムの導入に関する通知」を発表。同システムの導入は、従来の映画検閲の審査基準を緩めることを意味するものではないとしながらも、エロスと暴力の要素を含む4種類の映画を「16歳以下の少年や児童に適さない」としたうえ、「成人映画」の表示を義務付ける案を提示するもので、中国におけるレーティングシステムの確立に向かう第1歩として注目されました。しかし、同年6月の天安門事件によって、「映画法」制定の動きとともに失効・消滅し、現在に至っています(p188)

筆者・劉文兵氏は、「今こそ、中国にレーティングシステムの本格的導入を検討すべきではないか。」と述べています。

終わり

積み重なった検閲機関ー映画に対する規制(3)

映画に対する規制(2)はこちら

「中国映画の『熱狂的黄金期』」(劉文兵・2012年 岩波書店)は、中国において1980年代に行われていた映画検閲の実態を詳しく報告しています。

これによれば、当時の検閲は、脚本に対する検閲と出来上がった作品に対する検閲の二重構造からなり、映画産業の指導に当たる政府機関「電影局」、各撮影所の検閲部門、撮影所所在地の地方政府という検閲機関が幾重にも積み重なって存在する点が特徴です(p154)。

脚本に対する検閲は、各映画撮影所の企画部によって編集・発行される映画化前脚本の掲載誌について行われます。第1次の検閲権限は、各撮影所に委ねられ、撮影所は、検閲をパスした脚本のコピーと企画書の概略を「電影局」と撮影所所在地の党政府に提出することが義務付けられています。

出来上がった作品に対しても、各撮影所での第1次検閲、「電影局」での第2次検閲(試写室での上映→修正指示→撮り直しなどによる修正)が行われます。「電影局」だけの判断で決められない場合には、上級機関である文化部(わが国の文部科学省)へと移送され、それでも決められない場合、党の指導部の主要なメンバーに最終的な裁可を仰ぐこともあります(p163)。

「電影局」は、映画の題材に応じ、少数民族を描いた作品は民族問題委員会に、学園ものは教育部門にというように、他の政府機関に代理審査を依頼することがあり、それが事実上検閲のハードルをさらに押し上げる結果となっている…。このような重層的な映画検閲制度は、映画業界の自主機関としての映画倫理委員会(映倫)による「レーティングシステム」しか持たない日本人にとっては、想像を絶します。

映画に対する規制(4)に続く

中国の行方

1 今月の9日から12日まで、北京において、中国共産党・第18期中央委員会の第3回全体会議が開催される。5年に一度開かれるこの中国共産党の全体会議は、過去においても、中国の基本方向を定める場として有名な会議である。新聞報道によれば、習近平氏は、第14期の3中全体会議に匹敵する重要な会議になると述べたという。1993年11月に開催された第14期の3中全体会議は、1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年にソ連の崩壊を受け、中国の後進性も含め、社会主義体制の存続が問われた年であった。そこに登場した鄧小平氏は、「改革開放」「市場経済の重視」という近代化路線を目指し、5カ年計画を策定し、その実現に邁進したことは広く知られるところである。

2  この鄧小平氏は、筆者が高校生の時に、テレビ場面で見たことがあり、強く記憶に残っている。その場面は、首からプラカード(走資派とか、これ類する言葉が書かれていたと記憶する)を下げ、紅衛兵らしき若者に両脇を抱えられて、衆人環視の中で立たされている姿であった。当時、彼は北京市長の職にあった。鄧小平氏の「黒い猫でも、白い猫でも、鼠をとる猫は良い猫である」という名文句があり、「七転び八起」といわれる程、強運の持ち主であるが、彼の復活劇に周恩来首相の力があったことも現在では広く知られた史実である。

3 現在の中国共産党が抱える問題は、識者が指摘するように様々な問題がある。「格差社会」「汚職の蔓延」「環境破壊」など深刻な課題が目白押しである。「格差社会」から落ちこぼれた農民・都市の下層階級は、キリスト教や他の宗教に救いを求め、その数は1億人に迫るというNHKの報道があった。中国政府は「官製儒教」の教えを広めて対抗しようとしているが、その行く末は不透明である。「改革開放」と「市場経済の重視」によりいまや世界第2の経済大国となったものの、その基盤は盤石ではない。最近、天安門広場において、「ウイグル族」による自動車爆破事件が起きた。中国政府はこれを「テロ」と呼び、また、報道機関に対しても思想教育の一層の強化を始めている。中国政府は何にそのように恐れるのか。それは、歴史が証明するように自国民であろう。中国4000年の歴史と言えば、統一王朝が起こり、次に官僚腐敗、民衆の蜂起・反乱、最後の分裂と再集合という繰り返しである。昔、孫文が日本に在来していた頃、訪れたどこかの海辺で、海岸の砂を手に握りしめ、指の間から漏れ落ちる砂粒を指して「これが中国人民だ」と慨嘆した話を思い出す。この砂粒のような人民を「共産主義」という強力な糊でまとめ上げたのが、毛沢東であり、周恩来の革命第1世代である。周恩来がパリで地下活動をしていたおり、鄧小平はその使い走りをしていた頃の古びた写真を雑誌で見たことがある。鄧小平氏は革命第1・5世代である。

4 民衆の怒りこそが中国の時代を動かす力であることは、歴代の指導者は良く知っており、その怒りの矛先に先んじて「処方箋」を講じることが指導者の役割であるが、第18期第3回全体会議において、習近平氏は、どのような内容の「処方箋」をするのか極めて興味がある。中国共産党という一党による支配は、「格差社会」や「環境破壊」と言った「市場の失敗」について、より効率的に対処できる利点も有するが、13億以上の国民を代表するその正当性について、今後どのように舵を取って行くのか、目が離せない国でもある。

「芙蓉鎮」(謝晋(シェ・チン)監督・1986年)を観て-映画に対する規制(2)

映画に対する規制(1)はこちら

最近DVDで観た「芙蓉鎮」の感想をつけ加えておきます。DVDの包装に記されたあらすじは、次のとおりです。

「1963年、中国湖南省の南にある小さな町、芙蓉鎮。器量好しと評判の胡玉音が営む米豆腐の店は、大いに繁盛していた。夫ともども必死に働いたおかげで店を新築することもできた。ところが、自由化引き締め政策とともに資本主義者と糾弾され、家を没収、夫も殺されてしまう。1966年、文革が始まった。胡玉音は右派インテリと蔑まれていた秦書田と一緒に暮らすようになっていたが、文革の嵐のなかで、さらに厳しい時代を迎えていた。やがて文革が終結したとき…。」
主演女優リュウ・シャオチン(劉暁慶)は、1980年代の中国映画を代表する大女優。当時は鄧小平よりも中国国民に知られた有名人で、その後の私生活上のスキャンダルなどのため、「中国のエリザベス・ティラー」と呼ばれています。

「芙蓉鎮」は、党の地方幹部たちの硬直した官僚主義と人権侵害を暴き出しています。党支配に苦しむ農民の「もう終わりだ、いや終わっていない…。」といううめき声は、帝政ロシア末期の圧政下の農民が発するような現実感があります。それにもかかわらず、この映画が何重もの検閲をパスしたのは、文革の「傷跡映画」として、すべての中国人に共通する「負」の経験を癒す効果をもたらしているからでしょう。

胡玉音夫婦に激しい迫害を加えた女性の党幹部は、文革で一時失脚して紅衛兵に吊るし上げられ、ふしだらな女の象徴である破れた靴を首に掛けられて侮辱されます。女性幹部はこのシーンによって文革の共通の被害者として描かれた後、文革後は人民のために働く「正しい」幹部になることが暗示され、文革前の罪悪は帳消しにされています。

細かい情景では、党の下級幹部・王(女性幹部の情人)が文革期にふりかざす赤い小冊子には「毛沢東語録」のタイトルの文字や毛沢東の肖像は見られません。また、文革終了時に発狂した王がボロをまといながら街中で叫び続ける文革期のスローガンは「政治闘争を続けよう!」であって、「階級闘争を…」ではありません(後者を揶揄の対称にすることが許されるはずがありません)。
「芙蓉鎮」には、「黄色い大地」や「紅いコーリャン」に見られるような映像的冒険はありません。「父もの」的なハッピーエンドの結末もやや鼻につきます。

しかし、この映画が、文化大革命(文革)という政治的・歴史的な大事件を市井の若い女性の目をとおしてリアルに描く、重厚な作品であることは、まぎれもない事実です。

映画に対する規制(3)に続く