箱物行政と法科大学院

1 法科大学院制度が発足してから10年余がたち、受験生の減少に始まり、多くの問題点が生じて、当初の制度設計の当否が現在問われています。当初、司法試験の年間合格者を3000名程度とした方針は、平成25年7月16日の法曹養成制度関係閣僚会議の決定で現実味を欠くものとして、当面、このような数値目標を掲げることはしないとされました。

2 現在、日本弁護士連合会では年間合格者を1500名程度とする提言を行い、地方単位会では1000名程度を提案するところも存在します。年間3000名の合格者を輩出するために多くの法科大学院が設立され、現在でも74校の法科大学院があります。

平成25年度の司法試験合格者は2049名ですが、そのうち1241人が上位10校の法科大学院で占められています。司法試験後、司法研修所を卒業した者の相当数が就職できないという状況がこの数年続いています。この就職難が法科大学院及び司法試験の不人気を招くという負のスパイラルが始まっています。このような事態を招いたことには様々な理由が考えられますが、将来の法曹人口のあり方について、経済学的、社会学的な長期の分析を欠いたことが最大の失敗であると考えます。法曹人口拡大論は、規制緩和を主張する経済界に教育界と法曹界が相乗りしたものですが、「法的需要」の増大は意図したほど実現されていません。

需要サイドの検証が不十分なまま供給サイドの強化に比重を置いたことで、経済学の初歩の議論であるいわゆる「需給ギャップ」が生じるのは当然のことです。

3 平成13年に発表された司法制度改革審議会の意見書の理念は良く出来ているのですが、その具体策として、法曹人口を増大させ、そのための箱として法科大学院制度を創設したことは、高度成長期における「箱物行政」と相通じるものがあります。果たして、長期の法的需要の検討や法科大学院における教育費のあり方を真剣に検討した結果なのか疑問が残ります。

これらの制度の改変で振り回されるのは何時も若い世代であり、若い世代に大きな負担を強いる現行制度は大きく変更されるべきものと考えます。

中国における映画の検閲-映画に対する規制(1)

劉文兵「中国映画の『熱狂的黄金期』」(2012年 岩波書店)によれば、毛沢東の死(1976年9月)と文化大革命の終焉、鄧小平による改革解放路線への転換(1978年9月)から高度成長期の幕開け(1990年代前半)にかけての十数年間、とりわけ1980年代は、中国映画の黄金期とされています。

その間、いわゆる第5世代監督による「黄色い大地」(1984 チェン・カイコー監督)、「芙蓉鎮」(1986 シェ・チン監督))、「紅いコーリャン」(1987 チャン・ウモ監督)などが立て続けに国際映画祭で受賞。劉氏によれば、従来の社会主義計画経済の体制は、映画市場のニーズを無視し、イデオロギー的な教育効果ばかりを追及するという「負」の影響を及ぼした半面、映画人が採算を度外視して映画作りに専念できたことで、作品の質が保たれたという「正」の影響をもたらしました。改革解放路線への転換が映画製作の現場に影響を及ぼすのは80年代半ばからであり、「黄色い大地」、「紅いコーリャン」などが、映画表現の可能性を探ろうとする第5世代監督たちの試みを可能としたのは、ほかならぬ計画経済のシステムの存在に拠るところが大きかったのです(p146)。

「黄色い大地」は、1930年代の極貧の山村を舞台に、八路軍の若い兵士に対する少女の淡い恋情と八路軍への参加の決意を描いたもの。「紅いコーリャン」は、1920年代に始まるコーリャン酒の造り酒屋一家の生活と侵略日本軍に対する壮絶なゲリラ戦を描いたもの。いずれも、詩情豊かな映像と伝統音楽によるすばらしい作品ですが、共産党による貧農解放や抗日戦での英雄的な犠牲という、中国社会に固定された歴史認識の枠がはめられ、検閲の存在を推認することができます。

「中国映画の『熱狂的黄金期』」は、1980年代の中国における映画検閲の制度的な仕組みや具体的な流れを検証し、検閲側と製作側の間には「ここまで批判しても良いがこれ以上はだめだよ」というよう「暗黙のルール」が存在していたと指摘。この「暗黙のルール」は、高倉健主演の「単騎千里を走る」(2006 チャン・ウモ監督)で雲南省の僻地の刑務所長の「暖かさ」を強調する姿勢や、近年の「再生の朝に」(2009リュウ・ジェ監督)が中国社会の人権抑圧をテーマとしながらも、取って付けたように、最後に共産党の「法治」主義を評価する手法にも引き継がれているように見受けられます。

以下、劉氏の著書に従って、中国における映画検閲のシステムを概観することにします。

映画に対する規制(2)に続く