中国のインディペンデント映画とその規制(1)

いま、東京渋谷の「オーディトリウム渋谷」で、「第4回中国インディペンデント映画祭」が開催中で、2週間の間に、14本のフィクション・ノンフィクション作品が1日に3、4本ずつ上映。
主宰者は、「ごあいさつ」の中で次のように述べています。
「…中国のインディペンデント映画は、中国人の映像作家たちが自ら作り出した、非常にストレートな映像です。そこには政府の意図も、スポンサーの意向も、外国人の思い込みも入っていない,“個々の中国人が表現したいこと”が写っています。(略)こうした作品は中国国内でも殆ど観ることはできません。上映許可証がなければ映画館で公開できないのは当然ながら、民間で上映会を行う場合などでも、警察が来て突然解散させられたりします。昨年から今年にかけ、南京の中国独立影像年度展、雲南省昆明の雲之南記録映画展という2つの大きなインディペンデント映画祭が中止に追い込まれ、北京独立影像展という映画祭も、政府の圧力を受けて、事務所内での内部鑑賞会という形で何とか継続している状況です。一般の人たちに映画を見せる機会は奪われていると言ってもいいでしょう。」。

中山大樹著・「現代中国独立電影」にも、中国政府のインディペンデント映画に対する検閲について、次のような記載があります。
「…検閲の基準は明文化されておらず、担当者のさじ加減ひとつで非常に分かりにくい。検閲に触れる事項は多方面にわたり、政治批判や性描写、暴力シーンはもちろんのこと、幽霊などのオカルトも禁止だし、同性愛は不道徳ということで許されない。宗教をテーマにしたものも基本的にNGだ。」(p167)。

わが国の映画の規制は、映画界が設立した第三者審査機構である映画倫理委員会(1949年「映画倫理規程管理委員会」として発足)による4段階の「レイティング―rating」という、自主的・間接的なものです。このため、映倫審査を受けずに映画を一般公開する行為について、上映禁止措置がとられたり刑罰が科せられたりすることはなく、映倫審査自体を無用のものとするインディペンデント映画製作者も見られます。これと比較して、中国における映画の規制は、国家系・非国家系を問わず、国家権力による直接的なもので、映画法下の戦前のわが国を思い起こさせます。

以下、「中国インディペンデント映画祭」で観たいくつかの作品の感想を記します。

「レーティングシステム」への模索-映画に対する規制(4)

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1980年代後半になると、このような検閲に対する映画人の不満がつのり、合理的な検閲制度を確立しようという議論が活発化し、検閲をはじめ、映画製作、配給、上映など、映画システムのあらゆる面をカバーする「映画法」制定の動きが具体化。88年9月、北京で「国務院」、「電影局」の官僚と全国の映画専門家による「立法検討会が開催されます。

1989年5月、「電影局」は「レーティングシステムの導入に関する通知」を発表。同システムの導入は、従来の映画検閲の審査基準を緩めることを意味するものではないとしながらも、エロスと暴力の要素を含む4種類の映画を「16歳以下の少年や児童に適さない」としたうえ、「成人映画」の表示を義務付ける案を提示するもので、中国におけるレーティングシステムの確立に向かう第1歩として注目されました。しかし、同年6月の天安門事件によって、「映画法」制定の動きとともに失効・消滅し、現在に至っています(p188)

筆者・劉文兵氏は、「今こそ、中国にレーティングシステムの本格的導入を検討すべきではないか。」と述べています。

終わり

積み重なった検閲機関ー映画に対する規制(3)

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「中国映画の『熱狂的黄金期』」(劉文兵・2012年 岩波書店)は、中国において1980年代に行われていた映画検閲の実態を詳しく報告しています。

これによれば、当時の検閲は、脚本に対する検閲と出来上がった作品に対する検閲の二重構造からなり、映画産業の指導に当たる政府機関「電影局」、各撮影所の検閲部門、撮影所所在地の地方政府という検閲機関が幾重にも積み重なって存在する点が特徴です(p154)。

脚本に対する検閲は、各映画撮影所の企画部によって編集・発行される映画化前脚本の掲載誌について行われます。第1次の検閲権限は、各撮影所に委ねられ、撮影所は、検閲をパスした脚本のコピーと企画書の概略を「電影局」と撮影所所在地の党政府に提出することが義務付けられています。

出来上がった作品に対しても、各撮影所での第1次検閲、「電影局」での第2次検閲(試写室での上映→修正指示→撮り直しなどによる修正)が行われます。「電影局」だけの判断で決められない場合には、上級機関である文化部(わが国の文部科学省)へと移送され、それでも決められない場合、党の指導部の主要なメンバーに最終的な裁可を仰ぐこともあります(p163)。

「電影局」は、映画の題材に応じ、少数民族を描いた作品は民族問題委員会に、学園ものは教育部門にというように、他の政府機関に代理審査を依頼することがあり、それが事実上検閲のハードルをさらに押し上げる結果となっている…。このような重層的な映画検閲制度は、映画業界の自主機関としての映画倫理委員会(映倫)による「レーティングシステム」しか持たない日本人にとっては、想像を絶します。

映画に対する規制(4)に続く

「芙蓉鎮」(謝晋(シェ・チン)監督・1986年)を観て-映画に対する規制(2)

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最近DVDで観た「芙蓉鎮」の感想をつけ加えておきます。DVDの包装に記されたあらすじは、次のとおりです。

「1963年、中国湖南省の南にある小さな町、芙蓉鎮。器量好しと評判の胡玉音が営む米豆腐の店は、大いに繁盛していた。夫ともども必死に働いたおかげで店を新築することもできた。ところが、自由化引き締め政策とともに資本主義者と糾弾され、家を没収、夫も殺されてしまう。1966年、文革が始まった。胡玉音は右派インテリと蔑まれていた秦書田と一緒に暮らすようになっていたが、文革の嵐のなかで、さらに厳しい時代を迎えていた。やがて文革が終結したとき…。」
主演女優リュウ・シャオチン(劉暁慶)は、1980年代の中国映画を代表する大女優。当時は鄧小平よりも中国国民に知られた有名人で、その後の私生活上のスキャンダルなどのため、「中国のエリザベス・ティラー」と呼ばれています。

「芙蓉鎮」は、党の地方幹部たちの硬直した官僚主義と人権侵害を暴き出しています。党支配に苦しむ農民の「もう終わりだ、いや終わっていない…。」といううめき声は、帝政ロシア末期の圧政下の農民が発するような現実感があります。それにもかかわらず、この映画が何重もの検閲をパスしたのは、文革の「傷跡映画」として、すべての中国人に共通する「負」の経験を癒す効果をもたらしているからでしょう。

胡玉音夫婦に激しい迫害を加えた女性の党幹部は、文革で一時失脚して紅衛兵に吊るし上げられ、ふしだらな女の象徴である破れた靴を首に掛けられて侮辱されます。女性幹部はこのシーンによって文革の共通の被害者として描かれた後、文革後は人民のために働く「正しい」幹部になることが暗示され、文革前の罪悪は帳消しにされています。

細かい情景では、党の下級幹部・王(女性幹部の情人)が文革期にふりかざす赤い小冊子には「毛沢東語録」のタイトルの文字や毛沢東の肖像は見られません。また、文革終了時に発狂した王がボロをまといながら街中で叫び続ける文革期のスローガンは「政治闘争を続けよう!」であって、「階級闘争を…」ではありません(後者を揶揄の対称にすることが許されるはずがありません)。
「芙蓉鎮」には、「黄色い大地」や「紅いコーリャン」に見られるような映像的冒険はありません。「父もの」的なハッピーエンドの結末もやや鼻につきます。

しかし、この映画が、文化大革命(文革)という政治的・歴史的な大事件を市井の若い女性の目をとおしてリアルに描く、重厚な作品であることは、まぎれもない事実です。

映画に対する規制(3)に続く

中国における映画の検閲-映画に対する規制(1)

劉文兵「中国映画の『熱狂的黄金期』」(2012年 岩波書店)によれば、毛沢東の死(1976年9月)と文化大革命の終焉、鄧小平による改革解放路線への転換(1978年9月)から高度成長期の幕開け(1990年代前半)にかけての十数年間、とりわけ1980年代は、中国映画の黄金期とされています。

その間、いわゆる第5世代監督による「黄色い大地」(1984 チェン・カイコー監督)、「芙蓉鎮」(1986 シェ・チン監督))、「紅いコーリャン」(1987 チャン・ウモ監督)などが立て続けに国際映画祭で受賞。劉氏によれば、従来の社会主義計画経済の体制は、映画市場のニーズを無視し、イデオロギー的な教育効果ばかりを追及するという「負」の影響を及ぼした半面、映画人が採算を度外視して映画作りに専念できたことで、作品の質が保たれたという「正」の影響をもたらしました。改革解放路線への転換が映画製作の現場に影響を及ぼすのは80年代半ばからであり、「黄色い大地」、「紅いコーリャン」などが、映画表現の可能性を探ろうとする第5世代監督たちの試みを可能としたのは、ほかならぬ計画経済のシステムの存在に拠るところが大きかったのです(p146)。

「黄色い大地」は、1930年代の極貧の山村を舞台に、八路軍の若い兵士に対する少女の淡い恋情と八路軍への参加の決意を描いたもの。「紅いコーリャン」は、1920年代に始まるコーリャン酒の造り酒屋一家の生活と侵略日本軍に対する壮絶なゲリラ戦を描いたもの。いずれも、詩情豊かな映像と伝統音楽によるすばらしい作品ですが、共産党による貧農解放や抗日戦での英雄的な犠牲という、中国社会に固定された歴史認識の枠がはめられ、検閲の存在を推認することができます。

「中国映画の『熱狂的黄金期』」は、1980年代の中国における映画検閲の制度的な仕組みや具体的な流れを検証し、検閲側と製作側の間には「ここまで批判しても良いがこれ以上はだめだよ」というよう「暗黙のルール」が存在していたと指摘。この「暗黙のルール」は、高倉健主演の「単騎千里を走る」(2006 チャン・ウモ監督)で雲南省の僻地の刑務所長の「暖かさ」を強調する姿勢や、近年の「再生の朝に」(2009リュウ・ジェ監督)が中国社会の人権抑圧をテーマとしながらも、取って付けたように、最後に共産党の「法治」主義を評価する手法にも引き継がれているように見受けられます。

以下、劉氏の著書に従って、中国における映画検閲のシステムを概観することにします。

映画に対する規制(2)に続く

民主主義にとってすばらしいが…-「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(5)

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(4)はこちら

 「12人の怒れる男」は、素人の健全な感覚(広津のいう「人間に対する理解力、洞察力」)によって専門家の虚偽を暴くという点で、映画「評決」と共通するものがあります。

「怒れる」陪審員の一人は、評議の過程で次のような心情を吐露。
「この陪審制度は、民主主義にとってすばらしいことだといつも思っている。
われわれは、まったく見知らぬ人が有罪か無罪かを決めるために、この場所に来るように郵便で呼び出された。われわれにとって、評決は何の得にも損にもならない。これが、われわれが強い(strong)理由の一つだ。」(映画字幕では、「この国が強い理由だ」とされています)。
最後に、陪審制度に対する「手放し」の礼賛に疑問を投げかける人がいることも紹介しておきます。
在米の日本人で、カリフォルニア州裁判所の書記官として働く女性は、
「…裁判所も市民も今後どれだけ負担が増えることになっても、アメリカの陪審制度は絶対に変わらないだろう。陪審裁判を受ける権利が言論の自由のような基本的権利と同列で『誰も疑問視しないもの』として広く受け入れられており、人々のどこかに『その権利を守るために自分が義務を果たさなくてはいけない』という考えがあるからだ。」
という「タテマエ」論を認めながらも、陪審法廷に立ち会ったこれまでの経験に即して、
「アメリカの陪審裁判と日本の裁判(員)制度、今はどちらにしても博打の要素が大きすぎると思う。だから私は、『法律のプロである裁判官1人』が判決を下す法廷裁判を選択する。」
と言い切り、陪審裁判に対するアメリカ人の「ホンネ」が次のようなものであることを、最後に披露しています(*2)。
Do you really want to be judged by someone who was not smart enough to get out of Jury duty?
 わが国における裁判員制度の導入が、「民主主義にとってすばらしい」ことは事実ですが、その功罪を正確に評価するためには、しばらくの年月を要するものと思われます。
(*2) 伊万里穂子「私ならぜったいに選ばない陪審裁判」―田口理穂ほか「『お手本の国』のうそ」・新潮新書)。

終わり

人間に対する理解力、洞察力があれば…-「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(4)

前回はこちら

人間に対する理解力、洞察力があれば…

映画「12人の怒れる男」では、裁判については全くの「素人」である陪審員たちの手によって、法廷での証言や物的証拠のあらゆる疑点が一つずつ冷静に点検されています。しかし、わが国では、このような点検は、経験豊かな法律家でなければ不可能な、高度に専門的な作業であるかのように長く思われてきました。
64年前に発生した「松川事件」は、第1審では被告人20名のうち5名が死刑、5名が無期懲役、その他も有期懲役の有罪判決を受けながら、14年後の第2次最高裁判決によって全員の無罪が確定するという、典型的な冤罪事件でした。作家広津和郎は、第1審判決後に刊行された獄中被告の手記「真実は壁を通して」に接して被告人らの無罪を確信し、裁判批判の文筆活動を開始。 
これに対し、熊谷弘・東京地裁判事は、「中央公論」1955年3月号に「公開状」を発表し、
「…裁判の結果が自分の素朴的な考えと一致しないからというて、納得ゆかないとするのは、全くルールを知らないでスポーツを見て、その勝敗が納得ゆかないと抗議するのと同じように、およそ戯画的な風景ではないでしょうか。」
と広津を揶揄的に批判します。同月号に併載された「熊谷判事に答える」で、広津は次のように反論。
「…ルールを知らなければ裁判は分からないというお説は、一面もっともであると思います。法律家でない私は、裁判の手続きとか運用とかは知りません。(中略)…そういう問題と離れて、法廷記録によって、被疑者の行動を調べるというような事は、何もルールに拠らなくても出来るように思います。その点については現に判決文を読みましても、事理の審理はルールによってはいないようです。それはルールよりは、人間に対する理解力、洞察力のようです。」

 

怒り、対立しながら…-「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(3)

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(2)

これに対し、無罪説は、8番の陪審員1人だけで、その理由も、I just want to talk. つまり有罪の確信が持てないから、よく話し合おうという程度のもの。しかし、有罪にせよ無罪にせよ、少なくとも刑事事件の評決は全員一致であることを要するという制約のため、暑い夏の午後の評議が、有罪説の11人にとっては嫌々ながら始まります。

8番の陪審員は、まず、珍しい彫刻の柄を持つ凶器の「飛び出しナイフ」とまったく同じものが6ドルの質流れ品で売られていたと実物を披露。次いで、評議室内での再現実験により、歩行の不自由な老人がベッドから起きて現場が見える場所まで移動するには45秒を要すること(証言では10秒)が判明。高架線のそばで3日間仕事をした経験のある6番の陪審員(塗装職人)は、高架線を列車が通過する際の激しい騒音で、老人には「殺してやる」という叫び声が聞こえたとは思えないという。9番と8番の陪審員は、メガネなしで出廷した女性証人の鼻にメガネ跡があったことを思い出し、通過列車ごしに18メートル先の現場が見えたという証人が、現場を凝視するために不可欠なメガネを掛けていなかった可能性を指摘する…。

幼年期をスラムで過ごし「飛び出しナイフ」に精通する5番の陪審員は、「飛び出しナイフ」でとっさに攻撃する場合の刺し傷の形態について、重要な疑問を提起。陪審員たちは、ときに殴りあいの寸前まで感情を露骨に表し、怒り、対立しながらも、結果的には、証言や物的証拠のあらゆる疑点を一つずつ冷静にチェックします。

午後7時までに、無罪説は11人となる。有罪説は、高校のフットボール・コーチだという3番の陪審員だけ。その陪審員も、最後に、不仲な不良息子への悪感情が被告人の少年を有罪とする無意識の根拠であったことを認め、ついに全員による無罪の評決が成立する…。(続く)

(*1)ヘンリー・フォンダ主演映画でも、 Penguin Classicsの演劇脚本でも16才とされているが、19才とするバージョンもある(調査中)。

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(4)

圧倒的多数の有罪説-「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(2)

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(1)

被告人は16歳(*1)の少年(ヒスパニック系の混血か)。父親に殴られたことを恨みに、深夜、アパート2階の自宅で父親を「飛び出しナイフ」で刺殺したとして起訴されている。法廷の陪審員の前で目撃状況を克明に述べた検察側証人の1人は、鉄道高架線を隔てた近所の45歳の女性で、通過する列車ごしに自宅の窓から犯行を目撃したと証言。もう1人は、同じアパート1階の高齢の1人暮らし男性。深夜、「殺してやる」という階上の叫び声と人が倒れる物音を聞き、アパート出入り口に駆け寄ると、顔見知りの少年が逃走するのを見たと述べている。弁護人は「無能」な国選で、有効な反対尋問を行っていない(ただし演劇でも映画でも法廷シーンは一切なし…)。
このため、議論に入る前の最初の評決では、有罪説が11人という圧倒的多数。その理由は、2人の証言が具体的で信用できる、父親に殴られたという動機がある、凶器の特異なデザインのナイフが現場で保全されている、少年は犯罪の温床のスラム出身だ、少年はアリバイとして犯行時には映画館にいたというが映画の題名を言えなかった…などさまざまです。陪審員の1人は、当夜のニューヨーク・ヤンキースのナイトゲームに間に合うよう、とりあえず多数説に加担したようです。

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(3)

互いに名前も知らない陪審員たち-「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(1)

「12人の怒れる男」を初めて観たのは、教養課程の学生だった頃です。それから半世紀以上が過ぎて、数日前、「つたや」で借りたDVDで、古典となったこの白黒作品を再び鑑賞。12人の男たちが、裁判所の階段を下り、巨大な神殿のような玄関の柱を抜けて四方に急ぎ足で散っていく、印象的なラストシーンが甦りました。

記憶のうすれで、「怒れる男」という表題は、検察の不正に怒りをもって立ち向かった12人の陪審員を示すものと思い込んでいました。しかし、DVD鑑賞の後でPenguin Classicsの演劇脚本をよく読んでみると、至るところに、angrily, his anger rising, shouting, yelling, shut up, his face dark with rage, stare at each other…などの「と書き」が使われ、I’ll kill him(論争相手の陪審員を)という恐ろしいセリフも登場します。つまり、「12人の怒れる男」は、陪審員たちが全員一致の評決に至るまでの、「怒り」に満ちた言語的格闘(乱闘寸前で警備員が駆けつけたほど)を内容とするものだったのです。

この映画では、見ず知らずの12人の男たちが、法廷で裁判官から「死刑の余地のある第1級殺人事件」であることの注意を受けるシーンから前述のラストシーンの直前に至るまで、すべて密室内での男たちの半日にわたる激論の描写に徹しています。男たちは、お互いに名前すら知らされず、陪審員番号で呼び合う。しかし、職業だけは、経験や体験についての発言の中で、建築士(ヘンリー・フォンダの演じる8番の陪審員)の他、銀行員、時計職人、体育コーチ、株ディーラー、労働者…と、さまざまであることが分かります。

「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督 1957年)(2)