「まなこ濁りて、愚なるを証す」

コロナ騒動から見えてきた日本のかたちという論題で、昨年5月に上梓したが、オリンピックが8月8日に閉幕したことから、その続編を論じてみたい。

コロナとオリンピック

コロナウィルスは、今年に入り、デルタ株という変異株を生み出し猛威を振るっている。8月5日には東京で感染者が5000名を超え、全国の感染者も1万人を超えた。その後もコロナ感染者が激増しているが、オリンピックは既定方針どおり開催され、日本人選手の活躍もあり、メディア報道はほぼコロナ報道とオリンピックに独占された。政府は、19都道府県に対して、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置を宣言し、テレワークの推奨と共に不用意な外出を避けて、オリンピックの家庭での観戦を推奨した。

この相反する呼びかけに国民はしっくりしないものを感じている。政府の推奨にも関わらず、首都圏や観光地に於ける外出率は増加した。オリンピックの開催の是非を再論するが、モーンスーン地帯に属する日本で、しかも7月末から8月の上旬という一番暑い時期に、オリンピックを開催すること自体、気が動転して正気の沙汰と思われない。日本政府は頑なにオリンピックの開催にこだわり続け、開催を実行した。IOCとの関係維持や国際公約を守るという側面もあるが、無事、オリンピックを開催したという土産を持って来たるべき衆議院選や総裁選に臨むという政治的な理由もあった。ワクチンがある程度普及すれば、重症患者が減少し、オリンピックによる感染悪化という批判は免れるとの判断である。日本は幸いなことに諸外国に比すれば、コロナ感染者がとびぬけて多い訳ではないので、世界的レベルから見ると内閣府の某アドバイザーが失言したように、この程度の感染状況は、「チョロイ」程度なのかもしれない。しかしながら、実際、コロナで苦しむのは国民であり、さっさと2回の接種を済ませた上級国民である政治家諸氏ではない。IOCのバッハ会長は、スポーツの祭典を通じて平和のメッセージを全世界に届けるとし、菅総理は、コロナに打ち勝った証佐としての祭典であると喧伝している。実際、世界を見渡せは、テレビを通じてオリンピック観戦ができるのはアメリカを筆頭にした先進国や中等国であり、コロナワクチンの普及が遅れているアフリカ、アジア、南米やその他の多くの国では、コロナの対応に汲々としており、とてもバッハ会長や菅総理の言葉が表すような状況下ではないことは自明であろう。オリンピックは、世界の人々に喜びを届けるものである以上、その前提として、少なくとも日常の生活が平和であり、祭典を享受できる状況下で開催されるべきものではないであろうか。

その意味で、今回のオリンピックは、開催の前提について大きな疑問符が付く。今回のオリンピック開催のために、日本は3兆円を超える財政(税金)負担をする。仮に、この3兆円を超える費用の半分である1兆5000億円を未だ十分にワクチンの普及が進まない発展途上国のワクチン購入費用や公衆衛生費用に振り向け、残余の1兆5000億円は国内のコロナ感染対策費としたならば、どのような状況になったであろうか? 発展途上国に対する金銭援助は歓迎されることは間違いない。また、国内の医療体制確保のための費用も国民の理解を得られるであろう。賢人が言うように金は正しく使わななければならないのである。

パンデミックが炙り出す医療状況

コロナの対応に全世界の政府が苦慮している。それでも、アメリカやヨーロッパではワクチン接種が進行したことから、一時、死亡者数や感染者が減少したが、デルタ株が再び、猛威を振るい、感染者が増加する傾向を示している。ワクチンの接種が遅れている国々では悲惨な状況にあり、アフリカのチュニジアやアジアのインドネシア・インドなど医療体制が殆ど崩壊状態である。デルタ株の猛威により、ワクチン先進国のイスラエルでは3回目のワクチン接種(いわゆるブースター)が論議されている中、世界では数億人という人が1回目のワクチン接種すら受けることができずに放置されている。

経済格差から生ずるワクチン格差についてWHOは、強い警告を発している。日本の場合、デルタ株により、急速に患者数は増加しているものの、65歳以上の高齢者に対する2回目の接種が進み、今は、50歳以下のコロナ患者の増加防止に政治上の施策の中心が移行している。中でも、コロナ患者用のベッドの確保が喫緊の課題となっている。

小泉政権以前から、医療の効率化という名目で、国公立の病院やベッド数が減らされ(大阪維新の会は、「行政改革」、「医療改革」と称して、その先陣を走って来た)、急性期患者用の民間のベッドは増大したものの、感染症用の対策は長らく放置されて来た。医療の効率化という名目で、儲かる医療が優先され続け、長期療養者の確保で病院がペイする体制になっていったのである。このような医療の効率化に日本医師会も協力し、今では、日本の全ベッド数の約7割が民間病院等で占められている。公の病院が中心となる欧米の病院事情とは大きく異なる姿である。民間病院であれば、国公立病院と異なり、コロナ患者を引き受けるには、財政面や人員で大きなハンディキャップがあることから、即座に、コロナ患者を受け入れることが困難となる。現在、多くの医師や看護師が献身的にコロナ患者の対応にあたっているが、政府のこれまでの医療体制構築のつけを今、支払わされていると考えるべきである。

政治家の資質

今年の4月に大阪では、コロナ感染者の激増により、コロナ病床がひっ迫し、医療体制の崩壊と思われる現象が生じた。大阪に於ける公立病院等の病床の減少化に積極的に旗を振ったのはほかならぬ「大阪維新の会」であり、そのパフォーマーでもある維新の会の責任者の一人でもある吉村知事が対応に追われるのは何かの皮肉と思われる。

専門家の試算では8月中旬には、東京でもコロナ患者が1万人に達するとの見込みの中、8月4日に菅総理は、「中等症患者は原則、自宅で療養」と発言し、まもなくその発言は集中砲火を浴びて修正に追い込まれた。菅総理の記者会見をみて、何時も感じることであるが、この人は、質問に誠実に答えるという姿勢がまず感じられないし、言葉にも表情がなく、そもそも自らの政治の方向性を語ることもない。言質を取られること、批判されるのを極力好まないようである。発言内容も不明瞭なところがあり、丁度、夏目漱石の小説、「吾輩は猫である」の中で、吾輩が主人の顔を観察するくだりを思い起させる。吾輩は主人の表情に関して「彼の精神が朦朧として不得要領底に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然、味々然として・・・彼の頭脳が不透不明の実質から構成されていた、その作用が暗澹凕朦の極に達しているから、自然とこれが形状の上にあらわれて、・・・まなこ濁って、愚なるを証す」と描写している。なんとも良く似た風景ではないか。

コロナというパンデミックに遭遇し、難局に直面していることは国民も理解しているのであるから、政治家としては、科学に立脚しつつも、力点をおくべきところを明確にして、ドイツのメルケル首相のように国民に積極的に語りかけるという真のコミュニケーションを実践すべきである。間違えたなら、直ちに、撤回をして謝罪をすれば良いのである。夏目漱石が生きていれば、現在の旧態を踏襲するばかり、若しくはパフォーマンスだけの政治家諸氏に対して何と評するであろうか。

昔、太平洋戦争のさなか、アメリカ軍が日本軍を揶揄した表現がある。「兵は優秀、中堅はまあまあ、最高幹部は最低。」今の日本で言えば、国民やエッセンシャルワーカーは優秀、一般の公務員等の中堅層はまあまあ、最高幹部である政治家諸氏や中央官僚は最低レベルという評価になる。この国は表面的には変わったが、内実はあまり変わっていないのかも知れない。

結語

色々と政治家諸氏の悪口を書いてきたが、コロナという、100年に一度あるかないかのパンデミックは、世界の人々が置かれている状況を大きく炙り出して見せている。

21世紀に生きる我々としては、もう一度、足元を見つめ直す必要があるかも知れない。

ヘミングウェイが「誰がために鐘は鳴る」という小説の中に引用した17世紀の詩人「ジョン・ダン」の詩の一節をここに掲げたいと思う。

Devotions Upon Emergent Occasions     Meditation XV11

原文

No man is an island, entire of itself, every man is a piece of the continent, a part

Of the main, if a clod be washed away by the sea, Europe is less, as well as if a pro

Monitory were ,as well as if manor of thy friend’s or thine own were,

Any man’s death diminishes me, because I am involved in mankind , and therefore

Never send to know for whom the bell tolls, it tolls for thee

訳文

 なんびとも 一島嶼にてはあらず なんびとも みずからにして全くはなし

人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ) 本土のひとひら

そのひとひらの土塊(つちくれ)を 波の来りて洗い行けば

洗われしだけ欧州の土の失せるは さながらに岬の失せるなり

なんびとのみまかり(死ぬ)ゆくもこれに似て みずからを殺(そ)ぐにひとし

そは、われもまた人類の一部なれば  

ゆえに問うなかれ 誰(た)がために 鐘は鳴るやと

そは、汝(な)がために 鳴るなれば

(大久保康雄 訳)

コロナ騒動から見えたこの国のかたち

暫くブログを中断していたが、今回のコロナ騒動から見えてきた日本のかたちを論じてみたい。

パンデミックと日本

中国の武漢を発生源とするコロナウィルスは、昨年の12月末から原因不明の肺炎患者が続出しその兆候を見せ始めていたが、当時、武漢当局は、様々な政治的な会議が控えていたことから、これを敢えて重要視せず(コロナウィルスの検出を発表したのは1月9日)、感染を拡大させてしまった。感染が中国全土に拡大したにもかかわらず、中国に忖度するWHOがパンデミックの宣言を見送ったことで各国の感染策対応が遅れたことは事実であろう(パンデミックの宣言は3月11日)。日本においても、4月の習近平の訪日を控える中、武漢や近隣の州からの中国渡航者らや滞在した旅行者のみを渡航制限とする限定的な対処をした。これに対して、台湾当局は1月の初めから、この原因不明の肺炎に対する国家的な検疫・感染対策を構築して、機動的な手段を取って、コロナウィルスの封じ込めに成功した。日本の水際対策が遅れた理由は、習近平の訪日という政治的な事柄によるもので、国民の公衆衛生の確保を後回しにした政治的な判断であった。このため、春節の休日に合わせて中国人が大挙して日本の観光地を訪れ、武漢由来のコロナ株(これをG型という)が都市部を中心に伝播させたものと考えられる。3月中旬の全国人民代表会議が延期され、中国政府から習近平の訪日が延期する旨の通告を受けたころには、日本の感染者はうなぎのぼりとなり、政府はこれまでのクラスター一辺倒からの対策を変更せざるを得なくなった。4月7日には非常事態宣言が発出された。

非常事態宣言への疑問

非常事態宣言は、厚労省に設置されたコロナ対策班と専門家会議による検討の結果発出されたものであるが、テレビでは専門家の西浦教授がフリップで「8割自粛戦略」なるものを説明していた。これは、ヨーロッパ(とりわけドイツ)のデーターから、数理モデルにて分析し、8割の外出自粛が出来れば、オーバーシュートのリスクを回避できるというものであった。この当時の医療現場の危機感や世界の国々がロックダウンをしている現状からはやむを得ないものとは思いつつも、筆者は、当時も、何故実行生産数を2.5と算定したのか疑問があった。確かに、2.5という数字は、1人のものが2.5人に感染させるということからネズミ算式に感染者は膨大になるが、空気感染をするウィルスならともかく、接触や飛沫感染が主なルートのウィルスであれば、接触や飛沫を的確に防御する社会的生活(例えば手洗い、換気、マスク等)を徹底することが先であり、いきなり外出自粛8割というのは、あまりにも乱暴な議論ではないかと考えていた。因みに、5月22日現在の東京の陽性感染者は5136名(入院数561名、自宅・宿泊待機109名)であり、死者は263名である。乱暴な比較であるが東京の人口は約1400万人、人口10万人あたり死者は1.8名である。前年度の交通事故者を検討すると東京都は10万人あたり、0.96、徳島県が人口10万人当たり死者は5.57名である。5月22日の日本全体の感染者は1万6513人、死者796人である。前年度のインフルエンザの死者数は3325名であり、コロナウィルスの死者を大幅に上回っている。日本の緊急事態宣言の解除基準は「直近1週間の新たな感染患者が10万人あたり、0.5人程度」とされているがドイツでは10万人あたり50人とされ、既にドイツでは制限が解除されている。あまりにも日本の基準は厳しすぎるのではないかと思う。因みに、東京都は0.42人、神奈川県0.87人、埼玉県0.27人、千葉県0.26人、大阪部0.15人、京都府0、兵庫県0.02人となっている。

コロナウィルスを正しく恐れることは必要であるが、数値に現れない国民の衛生習慣(手洗い、風呂、マスクを日ごろ励行する国民的な衛生観念、BCGの接種)や社会的行動(抱擁や高齢者を囲む家族の食事の少なさ)が軽視されているのではないかと考えている。因みに、ある論文では、日本人は昨年からの他のインフルエンザウィルスの感染により、今回のコロナウィルス(G型)に基本的にかかりにくくなっているという説もある。北海道で患者が多いのは、春節で雪まつりの行事に中国人観光客が多数訪れただけではなく、北海道特有の機密空間(例えば2重窓)も寄与しているのではないかと思う。岩手県などは未だに感染者はゼロである。このような地域までも非常事態宣言というのは如何なものかと考える。愛媛県知事や他の知事が全国一律の非常事態宣言に苦言を呈していたが、同調圧力により大きな声とはならなかった。

病院問題

コロナウィルス対策で、日本のPCR検査体制の不備が論じられている。各国で大掛かりなPCR検査体制が進められているにもかかわらず、日本ではなかなかその体制が構築できない。サーズやマーズの経験値がないために、コロナ患者を発見し、隔離する体制が不十分であつたことは否めない。厚労省の管轄する保健所と民間病院との連携等もうまくゆかず、感染者は自宅待機などを迫られ早急な医療サービスを受けられず病死した例も多い。

日本の病院の民間の比率は約70%といわれている。日本の病床数は世界でも有数なものであるが、それが有効に活用されていない。民間の病院としては、他の患者もいることから、直ちにコロナの発熱外来を設けるだけの費用とスタッフもない現状では、コロナウィルスの患者を適切に処置することができなないのである。病院は、市場原理が支配する民間のセクターに比重を置くべきで存在ではない。公的なセクターとしての役割をもう一度見直すべき時期に来ていると考える。

経済格差について

非常事態宣言と外出自粛により、3月以降、学生、飲食店、観光業や中小企業で働く人々の窮状が報道されている。現在、資本金2000万円未満の中小企業で働く人は約370万人であり、これらの人々の給与水準は全産業水準の7割から8割程度である。5月22日までには雇止めは1万人を超えた数字が発表されている。テレビ等の報道では、コロナウィルスの影響により将来の生活に不安を持っている人は約4割というデーターがある。残り6割は、給与が減らない公務員を筆頭に大企業に勤務する者、裕福な年金生活者らである。前述した非常事態宣言に伴う、外出自粛と営業自粛はこれらの4割の人を直撃している。いつも災害や不幸が一番弱い人を直撃するのは歴史の常ではあるものの、人為的な政策の間違いにより犠牲者を生むことは避けなければならない。現在の状況は、6割の経済的に不安のない人々が4割の貧しい人々に対して、「自分たちの健康が害されるので、皆さんは困窮しても、自粛して動き回らずにじっとしていて下さい。」と言っているようなものである。やはり政治家は、感染予防と経済のバランスをもっと真剣に考えるべきである。

東京一極集中の改善と政府部門の効率性について

今回のコロナウィルスのパンデミック問題で、大都市に多くの企業や人が集積することの危険性がより露わになった。これから予想される第2波のウィルス感染やいずれ来る巨大地震(東南海地震や首都直下型地震)などを考えれば、地方都市でリモートワークをしながら働くというライフスタイルがもっと普及・定着しても良いと思える。また、日本は国民が勤勉でありながら、それを動かす自治体・政府部門が非効率であるために、重要な資源(自然・人・物・金)を十分に活用していないと思われる。今回、国は自治体の長に対してリーターシップを発揮してコロナ問題に対処するように喧伝しているが、十分な財源や人材を持たず、効率的な運営のノウハウを持たない自治体には任が重すぎるといわざるを得ない。自治体と政府部門の連携や施策の効率的な展開など今後改善すべき事項は多い。今後の課題は残るとしても、今からでも、政府の取る政策は科学的かつ社会経済的にも有意に裏打ちされたもので、より困難な問題を抱える国民に向けるものであって欲しいと思う。

夏を迎えて、心地のよい場所は?

1.夏の季節を迎え、心地の良い場所と聞いて幾つかの候補地が浮かんだ。人によって、心地の良い場所は千差万別であろう。涼しく、一人リラックスして、心静かに過ごせるところと言ったら、優等生の模範解答みたいで少し興ざめになるが、それでもこの効用は捨てがたい。何せ、モンスーンエリアにある日本で、東京という千数百万人の人がひしめき会う場所に住んでいるのだから、リフレッシュをはかれる場所は有り難いものである。

2.京都へは過去数十回訪れている。私のお気に入りは西本願寺である。いうまでもなく、浄土真宗の総本山として、信者のみならず観光客にも人気のお寺である。私が気に入っているのは、まず拝観料がないこと、御影堂や阿弥陀堂の渡り廊下や縁側が二間程もあること、とりわけ、縁側に着座して、庭の大銀杏を眺めると夏であれば涼しい風が心地よく、暫時の居眠りも出来ることである。ここで昔、コンビニで買ったおにぎりを食べたことがあった。親鸞聖人に怒られそうである。紅葉の時期は、大銀杏が色づき、巨大な黄色の山が出現する。敷地と建物が巨大なので、観光客の多さも気にならない。たまに読経の声が聞こえるが空間の巨大さに圧倒されてその声もか細く聞こえる。心をむなしくして座禅をするのも良いが正座も苦手であり、姿勢が悪く棒で叩かれるのもイヤである。気ままに座ってだらだらするのが最高のリラックスとなる。

3.夏のパリは、東京ほどではないもののやはり暑い。観光地の中でもサン・ジェルマン・デ・プレ教会はお勧めである。この教会は558年に創建されたパリ最古の教会である。建築様式はロマネスク様式と呼ばれるもので、ゴシック建築が多い教会の中で異彩を放っている。パリ6区のサン・ジェルマン・デ・プレ駅の直ぐ傍にありながら、観光客もそれ程多くなく静かで厳かな雰囲気を味わえるところに醍醐味がある。ひんやりとした空気に包まれ、昼でもステンドグラスから漏れ来る光で照らされるだけの薄暗い中で、椅子に腰掛けてボンヤリ過ごすのがこつである。ステンドグラスは暗闇の中でこそその価値がわかる。この教会には、「慰めの聖母像」や「フランシスコ・ザビエルの像」や絵画などが飾られているが第2次世界大戦中、ドイツ軍のパリ占領時にレジスタンスとして抵抗し、虐殺された人々も祀られている。その碑盤に刻まれた名前を見て、自由と独立のために戦った闘志達の気持ちに触れたような気がして、リラックスを超えて心に勇気を与えてくれる貴重な場所である。パリ観光の際には是非お勧めします。

プラモデル造りと油絵についての雑感

1.2年半前から千代田区にある絵画教室で油絵を習い始めた。

デッサンから下絵を造り、中塗り、仕上げという段階を踏んで完成させる油絵制作の手順は、昔、小学校時代に夢中になったプラモデル造りに相通じるところがある。

プラモデルの場合、無論、図面があり、組み立ての順序に従って、パーツを造り、本体を制作して仕上げる。製品には地色があるが、色を塗ることもある。戦闘機、戦艦、駆逐艦、戦車など数多くの模型を組み立てたが、筆者の一番のお気に入りは、ドイツの「パンサーと、タイガー戦車」であった。2番目のお気に入りは戦闘機であるが、零戦よりも英国のスピットファイヤーや米国のムスタングやロッキードP38などの外国勢がお気に入りであった。

プラモデルの制作に夢中になり時間を忘れた。油絵も佳境に入ると同じような感覚になる。

2.プラモデルは3次元の形態を有するが、絵画は2次元の世界の産物である。

西洋絵画の歴史を紐解けば、2次元の世界に奥行きを出すために、空気遠近法なる技法が考案され、ルネサンス期以降にレオナルド・ダヴィンチ等によってその具体的活用がみられる。これに反して、日本画は平安時代の絵巻物から始まり、近現代に至るまで、2次元的思考が強く、立体感に乏しい。浮世絵などは、構図と配置、色遣いで勝負する。立体感はひたすら鑑賞者の想像力に委ねられている。

その点、葛飾北斎の版画は、対象物の配置の妙と色彩から遠近法に類似する構成を持っている。「画狂老人」の天才たる所以である。絵画において、構図の問題を真剣に研究したのはポール・セザンヌであり、静物・風景・人物画のいずれにもその成果を感じることができる。

3.ルイス・キャロルの「ふしぎの国のアリス」では、2次元の住人としてハートの女王や衛兵が登場する。

2次元の住人は、3次元の世界を理解できない。2次元の世界の人に3次元以上の世界を説明しょうとする物語が「フラットランド」に書かれている。2次元の世界の人には、3次元の立体物は、単にその形態の影としか認識できないのである。

現代の理論物理学の世界では多次元の世界が論議されている。筆者の考えでは、ダリやビカソの絵には多次元の世界を2次元の絵画に写し込もうとする意図が感じられる。これらの芸術家は、見えぬ次元の世界を感じて2次元の世界の絵を描いているような気がしてなりません。

沖縄一人旅

1.先週、6月の上旬、既に梅雨入りにある沖縄へ旅に出かけた。2泊3日の一人旅である。目的は、絵の題材を探すことにあったが、梅雨でオフシーズンの沖縄をゆっくり見学するのも楽しみのひとつであった。
初日、那覇空港に降り立った瞬間からメガネが曇り、あらためて南国の梅雨を実感した。ゆいモノレールはそれ程の混雑ではなかったが、中国人や韓国人の旅行客が目についた。西洋人は日本人、韓国人、中国人の区別はあまりつかないそうであるが、やはり、日本人からみると服装やその色などから、それとなく違いがわかる。
初日は、夕刻に首里城を散策した。ホテルから首里城まで徒歩圏内であったので、坂道を昇り、途中、首里高校を過ぎて、首里城の入り口に到達した。6月は19時まで見学が可能である。首里城の城壁から、那覇市街地を望むことができる。過去の太平洋戦争の沖縄戦に於いて、この首里一帯は、軍の施設等があり、一面焼け野原となった場所でもある。首里城内の中庭で、沖縄の古典舞踊の催しが開かれていた。踊り手はいずれも保存会の名手かと思われる。歌舞伎と同じで、演目は若武者を想定しての踊りであるが、実際は年配者が踊り手を務めていて、やや興ざめの感があった。
2.次の日は、レンタカーにて南部を周遊した。琉球ガラス村→ひめゆり記念館→沖縄県平和祈念資料館→知念岬→あざまサンサンビーチというコースである。
ひめゆり記念館は何度も訪問している。今回の絵の題材探しは、沖縄県平和祈念資料館にある戦没者の墓碑に決め、適当な場所を探して散策した。夥しい戦没者の名が石に刻まれていた。沖縄戦では民間人の死者は9万人を超えたとされる。ここの墓碑には、米軍の戦没者も名が刻まれていた。その墓碑の前の芝生には小さな星条旗が立っていた。墓碑は摩文仁の丘から太平洋を望むように建てられている。資料記念館を背景に、緑の芝生にある墓碑が夏の太陽に照らされて白く輝いていた。
夕食は、安里駅にある「栄町市場」の近くの飲食店で済ませた。栄町市場付近は昔ながらの沖縄の雰囲気を漂わしている店が多い。飲食店の店主の紹介で、「アミーゴ」なるスナック風の店に入った。店のママさんはボリビア協会の監事ということだそうで、店内には沖縄からボリビアに移住した人たちの写真がところ狭しに飾られていた。2004年はボリビア入植の50周年ということで、今年は61周年にあたる。お客には近所の人と沖縄民謡の先生がいて、貴重な沖縄の民謡を拝聴させて頂いた。一見の客に対しても、暖かく接してくれたこの店に沖縄の心を見た思いがした。また、来よう「アミーゴ」さん。

京都庭園探訪記

1.8月16日(土)の京都、五山の送り火は前日・当日の大雨にもかかわらず、時間を順延して開催された。8月17日(日)から3泊4日の日程で京都市内に散在する名園を巡った。

目的は絵の題材の収集である。大雨の翌日から、一転して天候が回復し、連日35度ないし36度の酷暑の中を歩き回ることになった。

2.初日の訪問先は、西本願寺と渉成園である。

西本願寺は庭園鑑賞が目的ではない。御影堂と本堂に相対して2本の大銀杏が対になっている。御影堂の回廊に続く緣側のような廊下は2間の広さがある。この廊下に座して、大銀杏を眺めながら暫時休憩するのが毎回楽しい。外気温が36度でも、涼しい風が通り過ぎて大変に心地よく、昼寝に最も適した場所と言ったら親鸞聖人の罰があたりそうである。

西本願寺から渉成園に徒歩で向かう。距離は2キロもないと思うが、酷暑の中の移動はやや辛い。大きなつばのある帽子に濡らしタオルを御簾のようにぶら下げる工夫をしたが、戦時中の南方戦線の日本兵のような格好になってしまった(笑)。

渉成園の庭園では、園立堂、偶仙楼、傍花閣を経て、印月池に臨むことになるが、ここでは回棹廊から侵雪橋を越えて京都タワーを見渡すことができる。印月池に源氏物語の主人公である光源氏のモデルとなったとも言われる源融のゆかりの塔(九重の石塔)がある。

京都駅に戻りタクシーにて今夜の宿泊先の「ギオン福住」に向かった。この宿の風呂は、東山側に向いており、朝日の昇る中の朝風呂は気持ちが良い。

3.二日目の訪問先は、桂離宮、天龍寺、神泉苑である。

河原町駅から阪急京都線で5つめの駅が桂である。桂離宮への参観は、予め京都御所の宮内庁の許可が必要となっている。インターネットで申込みをする。繁忙期は抽選になるようであるが、夏期は比較的予約が取れやすい。桂駅からタクシーで2メーターの距離にある。

午前9時から午後3時30分まで1時間の参観が計6回行われる。私の参観時間は午前11時であった。人数は約20名で、うち、外国人が8人くらい混じっていた。会話からフランス人が3名、ドイツ人が2名おり後は英語圏内の白人であった。先頭にガイドがつき、参観の後列に皇宮警察官が付くというあんばいで、庭園の各所でガイドが丁寧な説明を行う。

桂離宮の写真はあまた存在するが、賞花亭の手前から、左に古書院、右に月波楼を置いて池を臨む構図が美しい。「京都のお庭」(JTBパブリシング)でもここの構図が採用されている。

桂離宮の美しさは、ブルーノ・タウトが賞賛したことで良く知られている。確かに、建物、池、植栽の配置がすべて計算されているかのような庭であるが、私はやや堅苦しいという雰囲気を感じた。

1時間の参観の後、タクシーで桂に戻り、阪急嵐山線に乗車して、嵐山駅に向かう。嵐山駅を下車し、嵐山公園を抜け、桂川が流れる渡月橋を渡る。嵐山界隈は日本人、中国系観光客がゾロゾロと歩き、土産物屋が所狭しと並んでいる。やはり、嵐山は京都観光の定番なのである。人数の多さに閉口しながら、天龍寺に向かった。

天龍寺の「曹源池庭園」は、夢想疎石の作庭とされている。「池泉回遊式庭園」の代表的な例である。この庭を臨む大方丈と書院の縁側には観光客が鈴なりに座っていた。この池が広がりを持つのは、嵐山・亀山を借景としていることが大きい。池の奥に「龍門瀑」という滝石組が置かれ、池のアクセントになっている。

人混みの中を京福嵐山本線の嵐山駅に向かった。この京福嵐山線の車両は1両のワンマンカーで、車両の後部から乗車し、前部で精算をして下車をする。四条大宮で下車。一路、二条城の近くの神泉苑に向かう。

四条大宮駅から約700メートル位の距離にある神泉苑は、昔の皇族の庭園であるが、紅いアーチ式の法成橋をわたり、善女竜王社にお参りすると念願が叶うと言われている。池に遊ぶ「アーちゃん」という愛称のアヒルがいるようであるが、日中の酷暑の故かその姿をみることができなかった。

4.三日目は、知恩院、青蓮院門跡、無鄰菴、南禅寺、圓徳院・北書院北庭と盛りだくさんのコースである。

知恩院はいうまでもなく、法然上人の浄土宗の総本山である。とにかく広い。国宝の三門を通り、坂道を進み勢至堂に至る。徳川家康は、浄土宗徒で知恩院の寺地を拡大し、2代将軍・秀忠もこれを引き継いだ。

知恩院から北に進むと青蓮院門跡がある。この寺は天台宗の寺であり、青不動があることでも有名である。庭は比較的こじんまりとしている。小御所から相阿弥の庭の「龍心池」を臨む。本堂には青不動が在所する。入り口に布が下げられていたが、布の隙間から青不動を見ることが出来た。この寺の鐘楼には自由にお突き下さいとの看板がかけられていた。鐘楼を突くと柔らかく響きのある音がした。

無鄰菴は、山形有朋の別邸である。この庭は奥行きがあり、奥の高い勾配から水が低地に緩やかに流れて母屋に向かう配置となっている。配置された木々もごく自然なもので、神社仏閣の庭とは全く趣が異なる。母屋の縁側にて木々からこぼれ落ちる光線をみると印象派が描く庭園のように見える。

南禅寺も敷地が広い。重要文化財の三門は、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな・・」の名科白で有名である。南禅寺の水路閣を見た後、金池院へ赴く。徳川家康を称えるために小堀遠州が作庭した「枯山水」の庭である。庭はそれ程広くはないももの、白砂に東山の借景が映える。圓徳院・北書院北庭は、秀吉の正室の「ねね」がまつられている高台寺の隣に位置する庭園である。北書院の方向から、左右に鶴・亀島を置き、中心奥地に三尊石組を配置する。極めて豪快で安土・桃山時代の雰囲気が感じられる庭であった。

5.連日、気温36度の中を歩き通したが、改めて、日本庭園の奥深さを知る旅であった。

ブリジストン美術館と小諸蕎麦

1.入館切符を求めて並んだり、むせかえる雑踏の中で絵を鑑賞するのは誰でもイヤである。
お盆は人の出も少なく、この意味で、絵画の鑑賞としては良い時期である。

外気の気温が35度近くになった8月15日午後0時に中央区京橋1丁目にある「ブリジストン美術館」を訪れた。

8月2日から9月23日まで、「絵画の時間」と題して、彫刻、絵画167点が展示されている。案の定、来場者はそれ程多くなく、1階の受付をすませ、エレベーターで2階の展示室に降り立った。

2.展示室は西洋関係の彫刻・絵画で10室、日本の洋画、1室で構成されている。エジプト、ギリシア、ローマの彫刻や文物もさることながら、やはり、近代絵画の展示がメインである。

最初にレンブラントの3作品がある。レンブラント自身の肖像絵とキリストにまつわる2作品があるが、F3よりも小さいサイズに暗い色調で描かれた人物に前近代的な雰囲気が漂う。アングルやクールベの作品は、写実を基本とした古典的な様式の作品である。

前印象派の中でも、カミーユ・コローの作品は森の小道と農家を描いたものであるが、木々の描写が写実的であると同時に色彩が極めて巧みであった。カミーユ・ピサロになると木々はやや多色的になり、印象派の到来を予感させる。マネの2作品をみたが、筆裁きにエッジをきかせている感じを抱いた。

アルフレッド・シスレーは3作品がある。アルべール・マルケと並んで私の好きな風景画家である。

ルノアールは5作品があり、少女を描いた大作の「座るジョルジェット・シャルパンティエ嬢」が秀逸である。ルノアールの描く人物の顔の輪郭がいつも曖昧なのはこの作品に限らない。女性の柔らかいタッチを重視してのことと思われ、この絵も鑑賞する距離をかなり離してみると生き生きとした全体の表情が浮かび上がる。

3. 次は、同じ巨匠のポール・セザンヌの3作品がある。中でも「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」は迫力がある。前景にぼかした赤松と斜めに取った構図の中央に、中景としてサント=ヴィクトワール山がどんと控えている。この絵も距離を置いて眺めることが必要である。

クロード・モネは5作品が展示されている。やはりこの人の作品は「睡蓮」である。療養のため妻と滞在したヴェネツィアを描いた「黄昏・ヴェネツィア」は、寒色系から暖色系までのすべての色が階調をもって現されていることに驚く。

ゴーガンは2作品、ゴッホは1作品「モンマモトルの風車」が展示されている。ゴッホが描いたように、モンマルトルは都市郊外の田舎で描かれたような風車があり、のどかな雰囲気があったが、パリの都市化が進むにつれ、キャバレーや酒場などが相次いで作られた。

アンリ・マティスも6作品がある。

アルベール・マルケは2作品があり、そのうち「道行く人・ラ・フレット」は私が好きな作品である。本物を直に鑑賞することが出来て大変に嬉しい。モーリス・ブラマンク「運河船」は赤、白、青の原色をそのままにブラマンクらしい絵である。エドヴァルト・ムンクの「病める少女」も病める少女の左傍らに顔を手で覆った女性は母親であろうか?

フェリックス・ヴァロットンも2作品がある。ジョルジュ・ルオーの「郊外のキリスト」「ピエロ」も強烈な印象を与える。あの黒色系は、何を現すものなのか、不安というより静かな祈りに近く、絵を通して祈っていると思える。アンリ・ルソーは2作品がある。ルソーは遠景も近景も細密画のように描く。配置も形も独特でありながら、奇妙なファンタジーを感じさせてくれる数少ない画家である。

ラウル・デュフィは2作品があるがやはり音楽的で色遣いも軽快である。「オーケストラ」は秀逸である。

パプロ・ピカソは7点ある。やはりこの画家はゴッホと同じく尋常ではない画家である。人物画もよかったが、「画家とモデル」と「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」が断トツの出来と思える。ジョルジョ・デ・キリコは1作品しかなく寂しい感じがした。モーリス・ユトリロは2作品。彼らしいパリの町並みや川岸の風景絵である。

藤田嗣治は3作品がある。「猫のいる静物」をみるとこの人の線の弾き方に驚嘆する。猫、燕、静物として並べられた魚、蟹、人参、玉葱だけではなく、テーブル廻りの木材、これは木目が美しく、まるで本物の木目のように描かれているのである。このような線の弾き方は藤田の十八番であったものであるが、どのようにして体得したのであろうか。

続いて、佐伯祐三の「ガラージュ」という作品がある。佐伯の作品も私の好みである。ブラマンクではなく、ポール・セザンヌに師事していれば夭折せずに、後日、藤田と並ぶ大家となったと思うと残念である。抽象画のワシリー・カナディンスキーやパウル・クレーの作品も1作品ずつ展示されている。

4.日本画家の展示室には、浅井忠の2作品、藤島武二の2作品(「黒扇」が良い)、小出樽重が2作品、安井會太郎が3作品、岸田劉生は3作品があり、「麗子座像」は強い印象を与える。古賀春江の3作品(初期の「遊園地」が良い)、梅原龍三郎の1作品、岡鹿之助、関根正二はそれぞれ1作品がある。

5.ブリジストン美術館の帰りに京橋3丁目の立ち食い蕎麦「小諸蕎麦」に立ち寄った。私が弁護士1年目で京橋に通い始めたときに出来た「小諸蕎麦」の1号店である。まだ、健在で味も昔と変わらずに値段も安いことに驚いた。良いものは長く残って欲しいと思いながら、銀座1丁目の駅に向かった。

油彩画とフランス語&ワールドカップ

1 本年の4月から毎日曜日に千代田区神田須田町にある絵画教室に通い始めている。デッサン、水彩画、銅版画、油彩画とあるが私が選択したのは油彩画である。絵などは中学生の美術の時間以来、実に46年以上もご無沙汰であったことから、どうなるやらと思っていたが、思いの外楽しいひとときを過ごすことができている。生徒は、若い人から私のような年配者も在籍しており、各自のテーマについて先生が指導をしている。デッサンをする人は若い人が多く、美大の受験生かと思われる。油彩画の醍醐味は、色を重ねて行きながら、モチーフを自分なりに表現することにある。下書きのデッサンも大事であるが、どのようなマチエールを生み出すのかは、その人の個性にかかるところがあって、実に奥深いものと思う。絵を見ることは若いときから好きであり、海外旅行先や国内の美術館へは比較的多く足を運んでいる。私のお気に入りの画家は、アルベール・マルケ、モーリス・ブラマンク、アンリ・ルソー、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティスである。日本では佐伯祐三である。印象派より野獣派や素朴派と呼ばれる画家がどちらかというと私の好みである。絵の初心者であるが、風景画から出発し、人物画、そして静物画へと約10年計画で進もうと考えている。出発点の風景画では、アルベール・マルケを手本として画きたいと思っている。マルケは一時期、野獣派と交わったが、次第に独自の落ち着いたタッチの絵を多く描くことになった。彼の風景画の多くはパリの街、港や川などで、「水の画家」といわれているが、その落ち着いたタッチや構図・デッサンの確からしさは初心者の私には参考となる。

2 南フランスの地中海に面した漁村「コリウール」を描いたマティスやドランの作品がある。「コリウール」にはピカソも暫く滞在し、マルケにも「コリウールの眺望」という作品がある。彼の地には、地中海の碧い海と紅い屋根の建物があり、光と色彩が豊かで、画家の心を捉えたのも無理はない。ここには日本人が経営する小さなレストランがあると聞く。是非行ってみたい所である。ある程度フランス語が喋れれば、旅行も楽しくなると思い、急遽、絵と並行してフランス語も勉強することにした。43年前、大学の第2外国語はドイツ語であった。NHKの毎日フランス語という教材を使用しているが、この教材は、文法は最小にして、とにかく話せることに重心を置いており、私のような超初心者にとっては大変有用である。フランス語の数字は60までは、10進法による読み方になっているが、70から79までは60に10から19を足して数えるという妙な形となる。80は4×20となる。急に20進法に変化するのである。識者によれば、ベルギー、スイスでは10から90までは完全な10進法になっているという。石原元東京知事がフランス語の数字の読み方について、クレームをつけていたが、そのような読み方になったのには、何らかの理由があると思われる。○○朝のルイ王がそのような読み方を定めたとか様々な俗説が紹介されている。故阿部謹也先生の著書である「中世賤民の宇宙」という本では、西洋中世の時間、空間、モノのとらえ方が紹介されている(因みに阿部先生は、ヨーロッパ中世史の専門家である)。中世の世界では具体的な生活のリズムから、様々な時間・空間意識が形成されていたとされる。私の解釈では、昔は70まで生きる人など殆どいなかったし、日常生活で70以上の出来事を細かにあらわす必要がなかったのではないか?すなわち、中世は現代の日本社会のような高齢社会ではなく、石原氏のような後期高齢者は殆ど存在していなかった。70以上は数字も含め、文化的に格別の配慮をする必要がなく、70以上はあり合わせで構成すれば十分であったと考えたのではないか。古代のシュメール、バビロニアの60進法に10進法、20進法が混在したものがフランス語であると考えると歴史の雰囲気も感じることができる。このような様々な要素が混在するフランス語は、様々な色彩が交わる油彩画と妙に相性が良いと思うのは私だけであろうか。

追記
ワールドカップの試合がブラジルで始まった。私は、中学生の頃サッカーをしており、我がチームは川崎市の大会で優勝をしたことがある。当時の私のポジションはCF(センター・ハーフ)といい、今のMFである。2002年の日・韓ワールドカップの当時、司法研修所で民弁の教官をしていたおり、「皆さん、早く家や寮に帰って見て下さい」と言って、午後の講義を少し早く終わらせたことを懐かしく思い出す。日本チーム!頑張って下さい。応援しています。

以上

4月の花(桜)を思う

1. 東京の桜も散る時季を間近に、今は盛りと咲いている。今日は、お釈迦様の誕生の日であり、「花祭り」の行事が催される地方も多い。釈迦の誕生日であるが、丁度桜の散るこの時期に思い起こされるのは、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した西行法師の桜の歌である。
  願わくは
   花のしたにて
     春死なん
   そのきさらぎの
     望月のころ
 桜をこよなく愛した西行のこの歌は、桜を詠んだ数多くの歌の中でもつとに有名である。
 この歌は、西行が亡くなる7年前に歌集選定の勅命により作られた「千載和歌集」に載せられ、西行は、1190年3月31日午後2時ころ、河内の弘川寺で入滅したが、その知らせを聞いた京の都の人々は即座にこの歌を思い浮かべたという逸話が残っている。
 「西行の風景」(NHKブックス)を著した桑子敏雄氏の解説によれば、西行と親交が深かった藤原俊成は、西行の歌を「詞あさきに似て心ことにふかし」と述べ、後鳥羽院は「心がことに深い」と評価したという。

2. 西行の風景を詠う和歌には、表象的な風景の背後に隠された「空間意識」のようなものが控えており、それは弘法大師が伝達した密教の「空間意識」(厳密には虚空)と同根で、その「空間」に日本の文化(和歌)を映し出したというのが桑子氏の分析である。西行が50歳の時に、崇徳院の霊を慰めるため讃岐国を訪ね、善通寺にて暫く庵を結んだという来歴からみて、誠にスリリングな解釈である。

3. 日本人の持つ「空間意識」というのはどのようなものであろうか。東京では高層タワーが乱立し、「空間」は単なる物理的な要素に貶められている。これに対して京都は、平成16年に「景観法」を策定し、建物の高さを制限するばかりでなく、建物の形態、色彩、意匠等に制限を加えて、1200年を超える古都の景観を守ろうとしている。政治経済中心の東京都と文化を伝承する京都市の「空間意識」のあり方を思うとき、4月の花はどちらの町が似合うのか論ずるのも一興と思える今日この頃である。

4. 4月8日を祝して、「千載和歌集」からもう1句、西行の桜の歌をここに現したいと思う。

 仏には
  さくらの花を
   たてまつれ
  わがのちの世を
   人とぶらはば

NHK会長人事について思う

1. NHKの籾井会長の「慰安婦発言」が物議を醸し、国内だけではなく外交にも影響を及ぼし始めている。籾井氏は、三井物産の副社長から日本ユニシスを経て、昨年12月にNHKの第21代会長に選任された人物である。民間会社から官営会社に転じた籾井氏の経歴をみて、戦前に三井物産の社長を務め、昭和38年に官営会社であった国鉄に第5代総裁に就任した石田禮助を思い起こした。石田禮助の伝記を記した城山三郎氏の書籍で表題にもなっている「粗にして野だが卑ではない」(文春文庫)は、国会の初登院であった昭和38年5月21日の衆議院運輸委員会における石田の総裁就任の弁として紹介されている。粗野であるが、傲慢ではなく、(品性・行動)は卑しくないという趣旨である。昔、三井・三菱の2大商社の社風に関して、人の三井、組織の三菱という言葉があったと記憶している。まさしく、石田の言葉は、良い意味で三井物産の社風を反映するものである。

2. 籾井氏が歴史問題に対してどのような個人的な考えを持つのか、市民と同様の自由を持つべきは当然のことではあるが、不可解なのは、NHK会長職としての抱負を聞かれたときに、ワザワザこの発言をしているという事実である。NHK会長人事に関して、時の政府の意向が色濃く反映されていると多くのメディアが報道している中で、会長の発言は、自己の選任にかかわった者に対する「追従」【ここでは「ツイショウ」と読む】と捉えられても仕方のない行為であろう。「追従」とはこびへつらうことであり、品性・行動が卑しくないことと対極にある言葉である。籾井氏のその後の記者会見における記者とのやりとりなどを見るとやや上半身をのけぞらせて、いかにも不満げな様子で応答をしている。意向に沿わない記者会見とは思うが、このような人物が公共放送のトップというのは寂しい限りである。

3.NHK会長及び経営委員のあり方に焦点があたっているが、宛て職ではなく、本当に公共放送を担う人材を確保するためには、組織と運営について一層の「独立性」を制度的に確保する必要があると思われる。